【高津区の整体/カイロプラクティック】腰痛・肩こり・姿勢改善なら溝の口カイロプラクティック院

のくちぃ散歩

二子塚公園〜トロリーバス〜【2014年5月30日】

案内板

今回は、2013年5月ののくちぃ散歩で立ち寄った光明寺のところで出てきた「二子塚」周辺へぶらりと散歩してみました。

 

光明寺の紹介のところで、

 

「光明寺は江戸初期に二子塚から移され、農民たちも一緒に移住し、二子村を形づくっていく。」

 

「二子塚とは現在の高津区二子5丁目、6丁目付近にかつてあった2つの古墳があった場所。」

 

などと紹介しました。

 

溝の口カイロプラクティック院を出発し、二ヶ領用水沿いを南東方向にぶらりと下って、トロリーバスの保存されている二子塚公園を目指します。

 

二ヶ領用水にはいくつか橋が架けられています。
治療院から一番近い大山街道に架けられているのが大石橋。
目的地の二子塚公園近くの二子塚橋までの橋も紹介していきましょう。

 

まずは、以前にも紹介した大山街道の「大石橋」です。
ここを右折して川沿いを下って行きます。

大石橋01

大石橋02

大石橋

ここを右に曲がって進みます

少し進むと「曙橋(あけぼのはし)」があります。
この辺りは花見の季節でも紹介してますね。

曙橋

あけぼのはし

曙橋

あけぼのはし

鯉

この二ヶ領用水には鯉やナマズが放流されています。あちこちに沢山泳いでいます。

 

このように水辺近くまで降りる階段も所々にあり、エサをあげると、うじゃうじゃ寄ってきます。
このような光景がよく見られます。のどかですね。

 

そして次の橋は「新雁追橋(しんがんおいばし)」です。

新雁追橋

川崎市歴史ガイド

新雁追橋

雁追橋の歴史ガイド

雁追橋

 

溝口付近は、江戸時代、将軍家の御鷹場として野鳥が保護されていた。
農作物を荒らす鳥を追い払う農民の苦労が橋の名となって残る。
雁追橋はもとは平瀬川にかかっていた。

 

とあります。
新しく架けなおしたので「新雁追橋」なのでしょうが、なぜこの橋なのかは不明です。
いつか調べてみましょう。

 

そのまま進んでいくと、溝の口駅方面と高津駅方面を結んでいる東急線と並行している通りに出ます。左に行くと高津駅方面、右に行くとドン・キホーテ前を通って溝の口駅方面となります。

高津駅方面

溝の口駅方向

左方向は高津駅方面

右方向は溝の口駅方面

これだけ人通りのある橋なのですが、何故か橋の名前がありませんでした。
実際には名付けられているとは思うのですが、見落としたのでしょうか。また今度調べてみます。

 

さらに進んでいくと、「二子南橋(ふたごみなみばし)」です。

二子南橋

ふたごみなみばし

二子南橋

ふたごみなみばし

柿畑

進行方向右手には見慣れない果樹園がありました。
近くへ寄ってみると柿の木でした。
花も咲き終わり、小さい柿の実が付き始めていました。秋に実がなる頃、また来てみましょうか。

 

またその奥にも梨畑やブドウ畑などもあり、夏から秋が楽しみですね。

 

昔はこの溝の口界隈は畑や田んぼが一面に広がっていたという話なので、昔ながらの畑が残っているのですね。
そのための二ヶ領用水ですからね。

 

そしてさらに進むと「平成橋(へいせいばし)」があります。

 

この橋の近くには二ヶ領用水に住んでいる魚の紹介板がありました。
「コイ」「ナマズ」はよく見かけますが、その他にも「ドジョウ」「フナ」「モツゴ」「オイカワ」等がいるんですね。

平成橋

二ヶ領用水の魚たち

平成橋

二ヶ領用水の魚たち

さらに進むと「二子新生橋(ふたごしんせいはし)」があります。

二子新生橋

ふたごしんせいはし

二子新生橋

ふたごしんせいはし

二子六丁目

橋の名前を見ていて気付いたのですが、いままでこの辺りの地名の「二子」は「ふたこ」と読むのかと思っていたのですが、住所の表示板を見ると正式には「ふたご」なのですね。

 

などと考えているうちに「二子塚橋(ふたこづかばし)」まで来ました。

 

ん?ここは「ふたこ」と読んでいますね。どちらの読み方が正しいのでしょうか。
これもまた調べてみないと・・・。

二子塚橋

ふたこづかばし

二子塚橋

ふたこづかばし

この二子塚橋を左に曲がってすぐのセブンイレブンの先を右に曲がると二子塚公園があります。トロリーバスの飾られた細長〜い小さな公園です。この記事トップの写真のような公園です。

 

このトロリーバスの脇には案内板が掲げられています。

トロリーバス

案内板

トロリーバス

トロリーバスの案内板

トロリーバス

 

このバスは、現存する川崎市のトロリーバスの最後の1両です。
戦後東日本で初めて走り、昭和42年当時には19両ありました。
昭和26年から昭和42年まで川崎駅から水江町まで7.30キロの路線は、同様に川崎駅と臨海部を結んだ市電と共に、川崎市の工業都市の復興に大いに貢献しました。
車体中央部から突き出したうさぎの耳のような2本のポールが特徴で、道路上に張られた架線から電気をとって走行しました。
「トロバス」と呼ばれて市民に親しまれ、満員の「トロバス」が、架線とポールの間に火花を飛び散らしながら疾走する姿は正に躍進する川崎の姿そのものでもありました。

 

とのことです。

 

なかなか貴重な最後の1両のトロリーバスとのことですが、車体は埃まみれで中は物置状態でした。折角保存するなら、もう少し綺麗に管理できないものでしょうか。

 

窓に貼ってあった当時の写真も載せておきますね。
ちょっと光の反射具合で見にくいですが。

写真01

写真02

写真03

写真04

写真05

写真06

写真07

トロリーバス後方 

トロリーバスの後方には砂場や、ちょっとした遊具などのある公園になっていました。
その公園の一角には「史蹟二子塚之碑」という碑が建てられていました。
裏にはその二子塚の由来の説明もありました。

公園

案内板

公園の広場

史蹟二子塚之碑

史蹟二子塚之碑

二子塚の由来

 

大正の中ころ、この二子塚より勾玉耳環などが発掘され、溝口の喜楽翁の手を経て県庁に納められたが、大正十二年関東大震災に亡失したという。

 

伝えられるところによれば、旧八王子街道には一王子村より八王子村までがあって、其の内、二王子村が現在の二子(村)になったという。

 

桓武天皇の直裔高望王の八王子口碑と合わせ伝えられている。

 

其の後、今を去る四百年前の大正十年、甲斐の国、武田の伊奈四郎勝頼公の家士、小山田備中の守嫡子、小山田小治郎宗光は勝頼公が、天目山に自刄した後、当地に来て二子元家敷に居を構えたという。

 

昭和四十三年五月五日 霧島雄三書

 

とありました。

 

旧字体や見慣れぬ語もあったため、写し違えてる個所があったら申し訳ありません。

 

「二子」や「二子塚」の由来や読み方もきっと諸説あるのでしょうね。
また機会がありましたらじっくり調べてみたいと思います。

 

マップ

ということで、今回は二ヶ領用水から二子塚公園までぶらりとしてみました。

 

【お散歩日 2014年5月30日】

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